2☆ ATSUSHI side
朝起きてすぐにピアノを弾きたくなると、戸惑う。
うまく指に力が入らない。
何か薄い手袋でもしているかのような――いや、指が太くなったような、不思議な感覚になる。
それでも時間が許すならば、弾かないという選択肢はない。
朝メシを後回しにしてもいいくらいだ。
例えるならば、真夏に汗だくで目覚めた人間が本能的に水を求めるように、僕はピアノの音を求める。
指がうまく動かないから、レパートリーの中からあまり難しくない曲を選ぶ。
今日はこれ。
「人形の夢と目覚め」
ゆるやかに眠る人形、彼女は楽しい夢から目覚め、そして軽やかに踊り始める。
彼女は人形だけれど、そこに彼女を操る無粋な糸など無い。
アツシは、「8va」の記号のある、高音のメロディーが特に気に入っている。
僕はピアノの練習を毎日欠かさない。
合唱の伴奏を担当していたころは決められた曲を発表会のために練習していたが、
その他はこうして、気に入った曲を自由に弾いている。
楽器はいい。何か麻薬的な力があるのではないかとさえ思う。
無心に鍵盤を叩く間だけは、思い出したくないことなど忘れていられる。ある程度いろいろな経験をした人間には、こういったものが必要なのだ。
アツシはこの曲の踊りのメロディーが、どこか夜を連想させるような気がする。
人形は人間たちの寝静まった深夜にひっそりと、人知れず目覚めるのだ。
目覚めの踊りを終えて、月の光を浴びる孤独な人形。
美しい情景が浮かぶが、アツシが人形と愛しい女性を重ねることは永遠にない。
最後の和音が響き、一日が始まる。顔を洗って、パンを焼こう。
黒いブリーフケースにテキストを詰め込む。今日は三限からの授業、楽な日だ。
天気も悪くない。
少しでも人の少ない電車に乗りたいアツシは、あえて早めに家を出て各駅停車を選び、
シートの端の席に腰掛ける。
この靴もそろそろ替え時だな、今度は真っ黒なコンバースにしよう、などととりとめもないことを考える。
前の席には一組のカップルと太った中年サラリーマン。
サラリーマンの広げる品のないスポーツ新聞には、でかでかと載せられたグラビアアイドルとその名前。
MP3プレーヤーを取り出してイヤホンを差し、ハードコアを流す。
ピアノで弾くクラッシックもいいけれど、
重々しいギターの音や何を言っているのかわからないシャウトを延々と聞くのも悪くない気分だ。
きっと目を閉じれば世界は完璧だ。
大学に入ってから、サークルを通じて自分と同じようなタイプの友達は何人かできた。
同じ苦しみを共有し理解してくれる人がいると、いくらか気分が楽だ。
しかし携帯を開いてアドレス帳を眺めたとき、こんなどうしようもない感情を吐露するにはどのアドレスも適切ではなかった。
―バカなことはやめよう。
苦笑いを浮かべ、パタンと音をたてて携帯を閉じる。
世界からずれているという不安。
常につきまとう違和感。
他人の脅迫じみた「普通」。
全てをあきらめてしまいたい自分と、寄り添う人を求めあきらめきれない自分。
理解されない愛。
―バカなことは、やめよう。